「映画」カテゴリーアーカイブ

映画「スケッチ・オブ・ミャーク」

ひさしぶりに、観た映画の投稿です。
(映画自体はもっといろいろ観ていたのですが…
 映画、というカテゴリーがこのブログにあったこと、ひさびさに思い出しました(苦笑))

ドキュメンタリー映画「スケッチ・オブ・ミャーク」を、逗子のシネマ・アミーゴに観に行ってきました。

友人が、この映画が気に入って何回も見た挙句、映画の舞台の宮古島まで行ってきた、と言っていたこともあって、気になっていました。

とてもよかったです!

宮古(ミャーク)の、神様に祈りを捧げる女性たちの唄が中心の映画です。
50代の女性たちのなかで、くじびきで神官に選ばれた人が、神に捧げる特別の歌を受け継ぎ、神事を取り仕切る。参加するのも女性たち中心。

映画を勧めてくれた友人も50代の方でした。
50代の女性というのはたしかに、日常とは少し次元が違う世界にパワーを発揮するのにふさわしい年代なのかもしれません。

神官はくじびきで選ばれるのだけど、「数日前に夢を見たので覚悟していたよ」と、それぞれの元神官の方が当たり前のように言っていたのも印象深かったです。

なんだか、神様のいる世界と、現世的・”現実”的な世界の行き来が、すごく自由な人たちという印象です。
昔はどこでも、そうだったのかな?

映画には、90代の男女の唄い手さんたちもたくさん出てきました。100歳代の方も!
ふだんはお百姓さんだったりする方々です。
みなさん現役で、朗々とした声で、すばらしい唄を唄う。
スピリットがこもっているのはもちろんのこと、音程やリズム感も、年をとって衰えるなんてことは一切ない感じ。歯がないおばあさんも、すばらしい唄を唄っておられました。

そして唄っているときも、踊っているときも、歩いているときも、体の使い方がとてもきれい。
腰が少し曲がったおばあさんも、その腰の曲がり方が、とてもきれいでした。

映画 ”スケッチ・オブ・ミャーク” 公式サイト

私、石井ゆりこの、アレクサンダー・テクニークlittlesoundsのサイトはこちら

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「お父さんのバックドロップ」

「お父さんのバックドロップ」を観ました。中島らもさん原作、宇梶剛士さん、神木龍之介くん主演の映画です。中島らもさんは、実は昔好きでけっこう読んでました。、まだらもさんが長い小説を書き始める前で、コピーライターとしてや、エッセイを中心に書いていたころで、笑いを追及しているんだけど、弱者に対してや、自分の弱さに対していとおしむような笑いなのでした。しょうもない人物ばっかりなんだけど、生きている、という感じで。で、とうとうらもさん死んでしまいましたけど。

映画とてもよかったです。80年代の大阪の下町という設定になっているのですが、その「80年代」がすごくていねいに作りこまれているのもよかったです。文化住宅(アパート)や、焼き肉屋や、町並みや。。

私は80年代はじめは、主人公の男の子と同じ10代でしたが、郊外に住んでいたのでどっぷりそういう雰囲気につかって生きていたわけではないけれど、でもやっぱりなんだか映画を観て、子どもの頃の原点・的な風景を思い出し、ちょっとその頃に帰りたくなってしまいました。渋谷の映画館の外に出て、「どうしてこんなに風景が変わってしまったんだろう?」と、一瞬愕然としてしまいました。

お父さんがドサまわりのプロレスラーなんですが、子どもと話しているシーンで、
「なんでお父さんはプロレスやってると思う?」
「プロレスが好きだからでしょ!」
「いやちがう、当番だからだ。学校だって、みんなが花の世話ばっかりやっているわけには行かないだろう? トイレ掃除をやる人だって必要だ。それと同じだ」
と言ってたところが、よかったです。
でも子どもはその言葉を聞いているのかいないのか、「お父さんは、僕よりプロレスのほうがずっとずっと好きなんでしょ!」と、怒ってしまうのですが。

はじまりとエンディングの字幕が全部イタリア語なのがおかしかったです。李闘士男監督がイタリア映画が好きで、「この映画はイタリア映画にしたかった!」そうです。
たしかに、イタリア人にも観てもらいたいな。
庶民的などろくささを、おしゃれに描いているところは、たしかにイタリア映画に通じるような気がします。

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「リトル・ダンサー」

映画「リトル・ダンサー」(原題 “Billy Elliot” イギリス映画)を観ました。 炭坑ストの頃のイギリスの炭坑の町に住んでる、ダンスが好きな男の子ビリーのお話です。「ダンスをしたい」っていう、すごい単純な欲求っていうのに、どうやって忠実でいられるかっていうことが、気持ち良く描かれてはげまされました。同時に、ダンスをしたいなんて、ふつう男の子が(とくに炭坑の町では)あんまり思わないようなことを思っちゃうような人っていうのも、やっぱりそこの社会に必要なんだ、ってことを、映画は言ってる気がしました。ひとりの男の子が「踊りたい!」という純粋な夢を、まわりの人たちといろいろに関係を持ちながら少しづつ実現させていく。最初は、本人もまわりの人たちも、「無理だよ。男の子がダンスなんて。」と信じているんだけどね。で、ビリーが夢をだんだん実現させていく過程のなかで、ビリーの家族や友達など、まわりの人も少しづつ変わっていく。

 ビリーのクラスメートで、女装が好きで男の子が好きなゲイ(トランスジェンダー?)の男の子(マイケル)がいるんだけど、彼とビリーとのやりとりのなかで、ビリーが「ぼくはダンスが好きだからと言ってホモじゃないんだ」とかいいつつも、無言で、社会の多数派とはちがった生き方を求めているマイケルを励ましている(マイケルもビリーを応援してる)。励ましあうのに同じ夢を持っている必要はなくて、同じ考えを持ってる必要もなくて、一人ひとりが社会のなかで、その人のものでしかないその人の夢を、お互いと、社会とかかわりを持ちながら、それぞれが実現させようとすることによって、社会がほんの少しづつ変わっていく、そういう過程が大事にできたらいいな、と、そんなことについて私は考えました。

 私がアレクサンダー・テクニークが好きなのも、アレクサンダー・テクニークを使って、その人個人から出てくるものを大切にすることを学べて、なおかつ、それが個人のなかだけで完結しちゃうわけじゃない、というところです。自分から出てくるものを大切にすることと、まわりから来る刺激にどう応えていくか、ということが、切り離されることはできない、そういうことに気づけるところが好きです。社会とどう関わりながら、どう自分を生きていくか、ということにとても関わることだと思います。

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