人の顔が見られなくてもいい(続:人前に立つときの緊張や、あがりについて)

きのうの投稿(「オーディエンスをお誘いする」って?)にも関連して…
人前で話したり、パフォーマンスをしたりするとき
「人の顔が見られない」と言う人は少なくないですね。

私もそうでした。
で、「人の顔が見られない」「でも見なくちゃ」
と思うと、「ああ、でも見られない」「でも見なくちゃ…」と、ループにはまってしまうのです。
ループしているうちにますます顔が赤くなってきたりして…。

実はあるときから私は
「人の顔を見なくてもいい」と決めたのです。

見ようとすることで圧倒されてしまうなら、べつに見なくていいと。

ただ、人が居ることには気づいていようと。
(というか、忘れたくても忘れないんですが…)

実は、見ようとすることも大変だけど、見ないようにすることも大変なのです。
圧倒されたくないからといって、人を視線に入らないようにするのは、後ろを向くか、目をつぶる以外にはむずかしい。

(でも実は昔、R.E.Mというロックバンドのコンサートに行ったとき、最後の曲でシンガーのマイケル・スタイプが後ろを向いて観客に背を向けて歌ってくれたことがあり、その歌はすばらしかったです。後ろを向いて歌っているのに会場全員に歌が届けられていました。全員を含んだところに、歌があった)。

でも普通の場合は前を向いて歌うので、それなら視野に人が入ってきます。
視野に入ってくるものを、視野に入れないようにするとなると、不可能なことを努力をしなくてはなりません。
(だけど実際、不可能なことを努力してしまっているときってありますよね)。

それで、そのかわりに私がどうしたかと言うと、
「景色の一部として、人を含める」というふうに見るようにしてみました。
「この部屋全体の景色のなかに、みんながいて、自分もいる」と。
それは、私にとって、自分が居やすくなる思い方でした。

上に書いたR.E.Mのマイケルの歌を聴いたときや、ほかのロックバンドや、歌手の歌を聴いて、心に残っているときに自分が感じていたのも、「部屋全体に景色があって、そこに含まれている」という感覚だったのです。

あるときは、森のような景色が部屋のなかに浮かぶかのように感じることもありました。

だったら歌う側のときも、同じようにすればよいんだと。

それが、私にとっては、しっくりきたのでした。

この話がアレクサンダー・テクニークにどうつながるかというと、
アレクサンダー・テクニークは、
「刺激に対しての自分の反応の可能性を探る」ワーク
だともいわれるのです。

自分がどんなふうに刺激に反応しているかを見てみて、
そこに別の可能性がないか見てみる。

言葉やメンタルだけの話ではなく、
自分の体がどう反応しているか、そしてどういう反応可能性があるか、
体とメンタルのつながりのところから見ていくことをしています。

それは自分の体の意識や感覚を育てていくこととも関連していて、
体の意識が育っていくにつれて、いろいろな可能性にもひらいていけるようになっていきます。

なのでレッスンでは、触れることや、動くことなども使って、自分の体と、意識と、総合的に気づくこと、可能性を探究することをやっていきます。

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