「意識する」ということ

「アレクサンダー・テクニークは不思議ですね。意識しなくてよいと言われたので意識しないようにしているのに、どんどん変わっていくので。」
と、生徒さんに言われました。

ときどき、そういうことを言われることがあります。

「意識しなくてよい」とは、ほんとは私は言っていないのですが、今までのその人にとっての「意識のしかた」を、しなくてよい、ということが、その人にとってとても新しいことだったのだと思います。

もしかすると、その人にとってそれまで「意識する」というのは、「こうするべき」「こうあるべき」という正しいあり方をつねに思い描いて、そこに自分のあり方をもっていこうと努力する、ということだったのかもしれません。

でもそれは実は、「意識をする」以上のことをやっているのでは? と、思います。

意識する、というのは、ただ気づきを向ける、ただ注意を向ける、ということで、それ以上のことはやらなくてよいんです。

これがなかなか、多くの人にとって、慣れないことで、
「つい、何かやりたくなってしまうんですよね」「むずかしいですね」と、よく言われます。

やらないことは、やりすぎることより、難しいのかもしれません。ふしぎですね。
でもそれは、ただ慣れていないからで、
慣れれば、そのほうがきっと楽だと思います。

自分を観察するときは、ただ、観察するだけでいい。よい悪いを判断したり、よい方向に持っていこうとしなくてよい。
方向性を思うときは、ただ、「そういう方向性があるのだ」と、思うだけでよい。そっちの方向に持っていこうとしなくてよい。(たとえば植物だったら、待っていれば芽を出して、自然に上に伸びていきます。むりやりひっぱって伸ばす必要はないですよね。)
それが、ただ意識する、ということです。

まあ、人間とは、つい、やりすぎてしまう動物。
その習慣を、少し変えていけたらいいんじゃないかな、と思います。

上に書いた生徒さん、「意識してないのに変わったんです」、と言われていたけれど、実際には意識していないつもりでも、意識はできていたんだと思います。
レッスン中でも、それ以外でも、「へぇ、そうなんだな!」と、体験的に納得したことは、意識に入りますしね。
そのあとも、必要なときに思い出していたんじゃないかな、と思います。

追記:これを書いた後、「ブログ読みました。意識しちゃいけないんですね」と、言われたりしました。
いやいや、そうではなくて、意識をもつのは大事なことです。なにも意識しないで、「おまかせ」がいい、という意味ではないので。。
自分が意識するということを、「どんなふうにしているか」、自分の意識のしかたの傾向・癖を、見てみることをやってみたらどうでしょう? ということを言いたかったのでした。

いや、コメントくれた方は、その意図はわかってくださっていると思いますが、ほかに読んでくださっている方のためにもクリアにしておいたほうがいいかな、と、念のため、書いてみました。

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