先日、”アイ・ボディ(Eyebody)” の個人レッスンをするために、マティアスさんという先生が来日していました。
”アイ・ボディ”というのは、アレクサンダー・テクニークをルーツにした目の使い方/脳の使い方のワークです。
去年、その4日間の合宿に参加したときのことは、こちらに書いています。
今回は、合宿をリードしたピーターではなく、アシスタントのマティアスが来てくれました。
ピーターは、目と脳の使い方について、さまざまなことを自分で探求して、発見したアイ・ボディの創始者だけあって、天才肌の人ですが、ピーターの弟子のマティアスは、もっと普通の人という感じです。良い意味で普通の人。
今回、私もレッスンを毎日受けて、また通訳のお手伝いもしたのですが、マティアスが、たくさん来る生徒さんの名前を全部覚えて、名前を呼びかけながらレッスンを進めていくところや、その人がどういう問題をかかえているのか、というようなことを丁寧に質問しながら、じっくり見て、誠実にレッスンを進めていく姿がとても印象的でした。
レッスン内容も、深くてとてもよかったです。
私は、
一日目は基本的なワーク、
二日目は、通訳をするときの目と脳の使い方 (→ 通訳するとき、緊張するので、目も体も、脳も固まりがちなのが、自分で気になっていて)、
三日目は、Ipod touch(=Iphoneから電話機能をとったもの)でTwitterをみること、
の、ワークをやってもらいました。
Ipod touchは小さいので、小さい画面でどんどんスクロールをしながらTwitterを読むと、目や体が疲れる、という問題が、以前からあったのですが、それだけでなく、読む内容のことがありました。
ちょうどそのとき、エジプトのデモの話題を見ていたのです。現地からのリアルな声が入ってきて、まだ収束に向かう前で、死者が出たり、一番、緊張感があるころでした。
そういうことを、たまたま知ってしまって、気になってしまって、Twitterを見ると、そういう情報がどんどん入ってくる。そういうニュースを見るのはつらいことでもあるのだけれど、ただ、世界の少しでも多くの人が見守っていることが、不当な暴力が行われたりすることの抑止力になる、という側面も、あるようなのです。
でも、だったらそのときに、自分が大変になってしまわずに、居られたらいいな、と思いました。
註※ #egyjp (日本語) #egypt (英語)というタグをつけてツイッターで検索すると、エジプト情勢についての現地からの声を中心とした情報が、見られるのです。ちなみに今はエジプトは落ち着いてきたけど、バーレーンやリビアが大変なようですね。祈。
ほかの人のワークのときにも常に言っていたことなのですが、マティアスは、プレゼンス(今ここに在る)という意図をもって、見る、ということを、ワークしてくれました。
「プレゼンス」というのは、見るという文脈でいうと、「”overfocusing” フォーカスしすぎ」でも、「”underfocusing” フォーカスしなさすぎ」でもない、目と脳の使い方、だということです。
でもその前に、そもそもなぜエジプトのニュースが気になって、見たいのか、ということを先生が質問してくれました。それで、自分がニュースを追っている意図が、自分なりにクリアになったところから、見るという行為に入り直せました。そうすると、自分がプレゼンスにいる助けになって、もう少し、落ち着くことができました。
それは、自由への意図であり、共感への意図だね、と。
あえて言葉にされてしまうと陳腐にも聞こえるし、そんなふうに、まとめられるのは、個人的に好きじゃない場合も多いのですが、でもなぜか、このときには、ワークの助けになりました。マティアスが、言葉のレベルじゃないところで、私の「意図」と一緒にいてくれたからなのかもしれません。
「意図(intend)」という言葉は、ピーターもマティアスも、とてもよく使います。
私にとってはあまり日常的に使う言葉じゃないので、最初、ピンとこない部分もあったのですが、アレクサンダー・テクニークで 「思う(Think)」ということと、同じことなのかな、と思います。
”Think” というと、考えすぎちゃう、というか、ウーン、と、うなりながら、コネクリまわして考えるような、重たい考えをイメージしてしまう場合があるので、意図(intend)にしたのかな?
アレクサンダー・テクニークでも「思うだけ、やらない」と、よくいうのですが、それと同じことなのかな、と思いました。何も考えないわけではなく、クリアー(明晰)に 「思い」、でも、そのために余計なことは 「しない」。
これはなかなかむずかしくて、ふだん私たちは、「思う」のと、ほとんど同時に、何かをやってしまっていることが、多いのですね。
マティアスは、
「プレゼンス(今ここに在る)という意図をもって」 に続けて
「判断を手放して」 とか、
「分析を手放して」
「理解しようとすることを手放して」 とか、
「どこかに到達しようとすることを手放して」
というようなことを、ハンズ・オン(手を触れ)しながら、その人や状況に応じて、言っていました。
たとえば、本を読もうとする人のワークのときには、
「内容を手放して、理解しようとするのを手放して、情報が光の粒子として届いてくるのをゆるす」
と。
内容をいったん手放すと、かえって内容が入ってくるし、理解を手放すと、結果的に理解できる、ということが、あるのです。
最初、老眼で読みづらそうだったその人も、だんだん、読めるようになってきていました。
これは、アイ・ボディのワークの報告でしたが、アレクサンダー・テクニークから派生して発展したワークなだけあって、アレクサンダー・テクニークの考え方のプロセスと、共通するところがたくさんあります。
どちらも、お勧めです。
”アイ・ボディ” の日本語サイトはこちら。