「わからなさ」について、「感覚」について

アレクサンダー・テクニークの世界は、本当に多様性があって、人によって、指導者によって、いろいろな考え方や、スタンスがあります。
人によっては、けっこう厳しい修練というスタンスで教えていく方もいらっしゃいます。
そういう考え方・教え方が合っている人もいるのでしょう。
 
私にとってのアレクサンダー・テクニークは、どんなふうか?
それを書いてみたいと思います。
 
たしかにアレクサンダー・テクニークは奥が深く、学んでいて「わかった!」と思ったすぐあとに、「あれ、こんなに未知なこと、わかってないことがあったんだ、自分自身のことなのに」と、唖然としたりすることもあります。
 
そんなときに、「自分はまだまだ未熟だな」と思うか、
あるいは、
「自分にはまだまだ可能性が潜んでいるんだな」と思う、か…。
 
私は、「わかっていない」ということを、ネガティブにとらえる必要はない、と考えています。
 
わかってない、ということが、わかるのは、むしろ、喜び であってもいい。
 
今、ここに居て、起こっていることに耳を澄ます・感覚にひらいている
 
そうしていると、そこにはつねに、新しい体験の可能性がある
 
未知にひらいている。だからこそ「わからなさ」に出会っている。
 
「わかったつもり」から、一歩、外に踏み出した、
そこに、価値があると思います。
 
そこで、ダメ出しをしてしまうのはもったいない。
むしろ、お祝いしたらいいんじゃないか? と思うのです。
 
 
さきほど「感覚」にひらいている、と書きましたが、
アレクサンダー・テクニークの教師・実践者によっては、「感覚」という言葉を使うことを避けることも多いのです。
 
それには理由があって、
「感じたことを頼りにして、同じことを再現しようとしたら、それは上手くいかないから」です。
F.Mアレクサンダーさんが、著書のなかで、そのことに注意をうながして、「感覚評価はあてにならない(faulty sensory apreciation)」と書いていました。
でも、それは、「感じる」ことそのものを、避けるべし、ということではない。
と、私は考えます。
 
感覚を頼りに「再現しよう」とすることを、やめたらいいのだと思います。
 
よいことであっても、感覚を頼りに、再現しようとすると、それはうまくいかないばかりか、よけいに固くなってしまいます。
 
それよりも、今、ここに居つつ、変化しつづける自分と、まわりと、ともにある。
今、感じていることを、定義を保留して、そのままに感じて、日々、新鮮に、向き合っている。それを続けていたら、ある日、予想もしなかったようなことが、現れたりします。
 
しつこい痛みが、いつのまにかなくなっていたり、絶対自分には無理だと思っていたことが、いつのまにか、できていたり、それ以外にも、いろいろな、想像できなかったようなユニークなこと、不思議に思えるようなことが起こったりすることがあります。
 
「この問題をなんとか解決したい!」と、そのことに対して頑張りすぎていたりすると、かえって問題解決に時間がかかってしまうことがあります。
ゴールに辿り着きたい!と前のめりになると、かえってゴールが遠のいてしまうということもあります(そのことを、エンドゲイニング(の落とし穴)と、アレクサンダーの言葉で言うことがあります)。
 
逆に、ゴールへのこだわりを一旦手放したら、気づいたらゴールに着いていた、ということが、あり得ます。
 
つねに、より良くなろうと、努力し続ける、
というのとは、ちょっと違うあり方での、物事への取り組み方がある
 
私はそのことを、アレクサンダー・テクニークをとおして学んできたと思っています。
それを、みなさんとも一緒に探求し続けたいと思っています。
 
 
そうは言っても再現性について気になる、再現性を得たい、という人も、大丈夫です。
感じることは大切にしつつ、
その「感覚を頼りに」するのではなく、どのような「意図」や「プロセス」がそこにあったかを見て、それと、体の動きとの関係を見てみましょう。
 
このあたりは、「こういう場合はどうしたらいい?」という具体的なケースごとの話になってきます。今ここで書くのは難しいですが、よろしければレッスンのなかで見ていきましょう。
 
感覚は大切にしつつ、
でもその感覚自体は、再現できるものではない、
ことも認めつつ、
できることは、たくさんあります。
楽しんで、怖がらずに、一緒に実験・探求していきましょう。
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