トミーの少人数のクラスや、個人レッスンは何度も受けてきたけれど、大きなワークショップは今回がはじめてだったので、とても新鮮でした。
今回、30人ほどのワークショップでした。
参加して、20年前、私がはじめてアレクサンダー・テクニークに出会った頃に受けたワークショップ(ミード・アンドリュースや、一番油がのっていた頃(?)のブルース・ファートマンのワークショップ)のときの体験をひさしぶりに思い出しました。
今回、アクティビティ(楽器の演奏などをそれぞれの人がやって、やっているところに先生がワークする)の時間が多かったです。
みんなの前でだれかが、楽器などを演奏する。(演奏などじゃなくても、日常生活の動きでもよいのですが、今回は、演奏や人前に立つときのことをやっている人が多かったです。)
最初に演奏したときも、もちろん悪くないのだけれど、ワークしてもらうと、「ああ、この人ってこういう質をもっていたんだなあ!」ということが、現れ出てくるのです。
そしてその質は、みんなそれぞれ違う!
Kさんのフルートの場合、草原で草笛を吹いているような感じ
もう一人のフルート奏者の場合、一音、一音への驚きがこちらに伝わってくるような、クラシック曲なのに、まるで即興のような、聴いてて新鮮な感じ。
彼女は、「練習してきたことにどうしても頼りたくなってしまうのだけど、それをやめたら、はじめて人前で吹いて楽しめた!」
と言っていた。
モデルで、女性の美しさについてのトークショーの準備をしていた人は、
美しい動作を見せなきゃ、というのをやめたら、
美しさがもっと出てきた。
歌をうたったふたりも、とてもよかった!
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アレクサンダー・テクニークは、無駄をやめて効率的に体を使う、
というような説明になってしまう場合も多いのだけれど、
それだけの説明ではおさまらない質が、ほんとうはある。
でも、ただ効率的になるだけのワークのように見える場合もある。
自分が教えていても、そういうふうになる場合がある。
それが悪いわけではないし、それが役に立つことも多いけど、
ただそれだけだと、
そんなにおもしろくはないかも、と、思ったりすることもある。
ずっとやり続けようと思うほどには。
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トミーがワークショップで言っていたことの一部・・・
「やることが少なくなればなるほど、
表現しようとすることも少なくなればなるほど、
聴き手が聴くための スペースがあらわれる」
「一度に180°変わるのではなく、瞬間、瞬間、新しくなりつづける」
「アレクサンダー・テクニークが真実なのではない。
先生が真実なのでもない。生徒でもない。
ふたりの間で起こることが真実。
その瞬間、二人ともが生徒になる。
マッチをマッチ箱ですって火がつく瞬間のように
(先生であり続けようとする人は、その意味を逃してしまう)」
「中断を邪魔としてとらえるではなく、
かと言って無視するわけではなく、
刺激を意識的に使って、新しくなっていく」
トミーとその学校で学んだことについては、ボストンでのアレクサンダー・テクニーク:カテゴリ一覧 に、まとめてあります。