何もしない手

先日、某アレクサンダー・テクニークの教師養成コースで一日クラスをやる機会をいただきました。
どんなことをやるか、いろいろ考えてみましたが、手を使ってお互いにワークすることを中心にやることにしました。

「手を使ってのワーク」を、教師養成コースでどのように学ぶかについては、世界各地にあるアレクサンダー・テクニークの学校でも、学校ごとに違いがあります。最初の1年は全然それをやらせてもらえない、自分の面倒を自分で見られるようになってはじめて、手を使って人にハンズ・オンさせてもらえるようになる、というアレクサンダー・テクニークの学校も少なくないらしいです。

それぞれの方針に意味があって、よさがあると思いますが、今回は、私自身が学んできてよかったやり方でやってみることにしました。(「好きなようにレッスンしていただいていい」と責任者の方に言われていたので)。

私自身が最初に学んだ京都のコースも、後になって学んだボストンのコースも両方、比較的最初のころからお互いに手を使ってワークしていました。
京都のコースではそれでも、一年生は最初の数ヶ月はワークを受ける側にまわることが多かったですが、ボストンのコースでは、「最初の一日目からお互いにやりあう」というのが徹底していました。

「お互いに」というのを徹底してやることで、ワークを受けることは受け身ではなく、能動的なことなのだ、そしてワークするほうも「何か特別な技術を使ってやってあげる」こととは違うのだ、ということが、クリアになります。

たしかに、アレクサンダー・テクニークで手を使ってワークしてもらうと、軽やかに触れられたり、触れられて一緒に動いただけなのに体がひらいたり、楽になったりして、それに最初、驚く人も多いです。「魔法の手みたいですね」なんて言う人もいます。

でも実は、何もしていないのです。

「何もしない」ということがうまくできると、何かが起こるのです。
「何もしない手」で触れながら、一緒に動くと、いつもと全く違う動きが出てくるのです。

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この「何もしない」ということが、アレクサンダー的なのです。

一般的に、人に触れるときは、親愛の情を示すときか、
そうでなければ、悪いところを直すためであったり、改善するべきところを指摘するためであると思います。

「ダンスクラスで先生に触れられるときは悪いところを指摘されるときだから、触れられると、『どこが悪かったのだろう?』『どこを直すべきなのだろう?』と考える癖が出る」と言われていた方が先日いましたが、同じような経験を重ねてきている方は少なくないと思います。

もちろんダンスクラスの触れ方が悪いわけではなく、それはそれで意味があることです。でもアレクサンダー・テクニークでの「触れる」ことの役割は、それとはちょっと違うのです。

non-doing handsを使って un-doing processをサポートする

(non-doing hands=何もしない手)
(un-doing process=やりすぎを少なくしていくプロセス)

それがアレクサンダー・テクニークでの手を使ったワークの役割です。

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この「何もしない」というのが難しくて、何かやりたくなってしまうし、「何かやらなくちゃいけないのでは?」「そう言うけど本当に何もしていないわけではないのでは?」という思いも出てきます。

そして、「本当に何もしないのだ」ということが理解できてからも、何かの拍子に「何かやりたくなる」という反応が意識しないうちにすぐ出てきます。「よろこんでもらいたい」とか「変化を起こしたい」とか「しんどそうだから直してあげたい」とか。。

そういう反応を「抑制」することが、修行といえるかもしれません。

そして、「何もしない」ためには、やっぱり自分自身をよく観ないといけないし、自分の中心がしっかりしないと、文字通り、”小手先”に頼って何かしてしまうのです。

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そういう意味で、「自分の面倒を自分で見られるようになってはじめて、手を使って人にワークさせてもらえるようになる」という方針の学校があることも、理解できることです。

でも、「”人に働きかける”というアクティビティをとおして自分自身について学び、自分自身の癖について学び、癖から抜け出すことを学ぶ」という学び方は、やっぱり私にとってはよかったのです。

ひとりのときは自分を大切にできても、人と一緒にいると、多かれ少なかれ、まずその人のために何かしようとしたり、その人の望みに合わせようとするのが、無意識のうちの心の癖になっている、という人は少なくないのではないでしょうか?

私にも、そういうところはあったと思います。

それが、アレクサンダー・テクニークのトレーニングコースでは、人に働きかけるときでも、それが生徒さんであっても、
「まず、自分を第一に考えなさい」
と言われます。

最初、
「本当にそれでよいのだろうか?」
と、クラスメートの人たちと話し合ったものでしたが、
だんだん、そのことの意味がわかってきました。

まず、自分を大事にして、はじめて、人にもよい影響を与えることができる、
ということがわかってきました。

自分を大事にして、やりすぎをやめていこうという心の方向性を持つことで、
相手の人にもその意図が伝わり、undoing-processを共有することができるんですね。

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アレクサンダー教師にかぎらず、人は人と対話したり、やりとりをしたり、関係をもちながら生きている。あるいは、対”人”に限らず、動植物や物・事と関係をもちながら生きている。
そうやって、誰かやなにかと関係性をもとうとするときに、自分自身はどんなふうにしているか、ということを観ていくことは、とても実践的な学びになります。

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