「アレクサンダー・テクニークは治療ではない」と、よく言う。
実際治療じゃないし、私はその治療じゃないというところが好きなんです。
でも、ワークすることで、症状がよくなったりする場合がある。
それは施した術の結果ではなくて、本来あるべき姿が取り戻ってきたからだったり、その人のなかで、いろんな要素がより統合されたからであったり、余分な努力や不必要な力を手放すことができたからだったり、ということなわけです。
レッスンはそのきっかけになる刺激だったり、情報提供だったり、交通整理だったりにすぎないんだと思います。
でも、症状がよくなることを期待して「早くよくなれよくなれ」と思いすぎると全然よくならなかったりする。
「よくなりたい」という思いからもちょっと離れて、まずは症状と共存しようというぐらいのところにいるほうが、少しづつ変わっていきやすいようです。
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さて「治療じゃない」ということについてですが、最近、アレクサンダー・テクニークとかだけじゃなく、医療に携わる人も、「治さない」ということを掲げる人があちこちで出てきているようなのです。
最近では、がんの医療に携わる人がそう言っていたのを読んだり、
あと、「べてるの家」という、精神病の人たちが集まるグループホームと病院の連携の本にも、「治さない、治せない医者」をモットーにしているお医者さんが出てきました。
この「べてるの家」の本
『安心して絶望できる人生』(NHK出版 生活人新書)
には、すごく、はっとさせられることがたくさん書いてあるのですが、この「治さない」というのもその一つです。
結局、専門家といえども他人がその人を「治してあげられるはず」「治せなければいけない」と思うのは、やっぱり思い上がりなのかもしれないな、と、思います。
ここに出てくる人たちは、「治せない」ということを覚悟していることで、なんだか、起こっていることについての畏怖の念みたいなのを排除していないように見えます。
たとえば幻聴に悩まされている人たちが、幻聴を「幻聴さん」と呼ぶようになって、幻聴さんとの付き合い方を学んでいく。幻聴さんを乱暴に扱ったりしないで、たとえば、「今はすることがあるので、帰ってください」とか、幻聴さんにていねいに話しかける。。
それと、病気の当事者が自分の病名を自分でつけたり、
(いろんなユニークな名前がありました。
「人間アレルギー症候群」とか、
「魔性の女系人格障害見捨てられ不安タイプ」とか、
「統合失調症爆発型救急車多乗タイプ」とか。。)
自分の病気を、他人の目ではなく、自分の実感で把握していくプロセスが大事にされている。そして、「当事者研究」とかいって、同じような病気をもった人同士で、自分の苦労をわかちあい、どうすればいいか実験し、研究していくことが大事にされているのです。
そういうことを、ここのリーダー的存在の、ソーシャルワーカーの向谷地生良さんは、「本来の自分らしい苦労を取り戻す」と表現しています。
専門家や、薬の助けも借りるけど、頼りきりになるのではなく、まずは自分のするべき苦労をする、そうできる場がある。
そういう場では、なんだか、病気なのにみんな生き生きしていて、病気なのに病んでいない、そんな感じがしました。
どこかの(ドイツだったかな)の医者の学校だったかの門に(ううあやふやな記憶でゴメン)、
ときに癒し、ときに励まし、しばしばなぐさむ
というような言葉があるそうで、これはとっても記憶が曖昧なのだけど、
つまり癒したり、励ましたりできるのは時々しかないけど、いつも慰めることはしている、
ということだそうでして。