ルシア・ウォーカー・インタビュー 2003年5月8日 東京にて その2

ルシア・ウォーカー・インタビュー その1から続く

ールシアはどういう教え方のスタイルが好きですか?

 そうね、わからないな。いろいろなところにすごく尊敬している先生たちがいるし、すごく尊敬している教え方がある。私がほかの人たちの教え方を尊敬していたり、うらやましいと思ったりするとき私は、「何が起こっているんだろう」と見てみるの。それで、私もそれを学んで自分のものにしたいと思うこともあるし、あるいはただ、誰かがその人なりのやり方をとてもいい感じにしているのを楽しむだけのこともある。私はほかの人びとのほかのやり方をとり入れることが多いわね。

 でもそれとはべつに私は自分がやっている自分のやり方があるということもわかっている。だから私はそのやり方が好きなんだろうね。あるいは、それがうまくいくと思っているんだろうね。でも、決してそれがただ一つの教え方だとは思っていないし、一番いい教え方だとも思っていないの。それはただ、私がやっているやり方なの。

 ーではルシア自身が教え方としてやっているやり方とは?

 状況によって違うのよね。いろんなことが混ざり合っているわね。たぶんこの、混ざり合っているということが重要なんだと思う。自分たちの反応にもう少し自覚的になれるような機会をつくろうとしているんだと思う。そしてそういう機会というのは、いろいろあるの。私はそういう機会をさまざまなものにしておくということが大事だと思っているの。だから、いつも日常の動作やパフォーマンスのアクティビティをレッスンで扱うわけではない。ときには、まったく新しいアクティビティをやるように提案することもある。何の役にも立たないようなね。あるいはただ、今起こっていることを、即興的にやることもある。

 そして、触れること、ハンズ・オンがある。私は触れることによって何が実際に起こっているかについて、ずっと研究している途中なの(笑)。たぶんそれさえも、そのときによって違うし、人によって違うのよね。わからないんだけれど、何か違うことを知るための機会を提供することだったり、何か違うことをするための機会を提供することだったりするんだと思う。そうして、可能性がひらかれる。そんなようなことだと思う。

 よく生徒はレッスンのとき、落ちついて平和な感じになったとか、静かになったとか言う。でもしばらく前まで私は、「静かだとか、平和だとかいうのって退屈じゃない?」と思っていたの。そういうのを好む人たちが多いけれど、私自身がそういうのが好きかどうかはよくわからなかったの。でもアレクサンダーさんは、そういうのを好んでいた。「そういう静かな、落ちついて集中できる状態、つまり、その人の理にかなったプロセスがはたらく状態にならなければ、何も学ぶことはできないし、経験することができない」というようなことをアレクサンダーは言っていた。私もそれはたしかにそうだと思う。あちこち興奮しすぎていたら、新しいアイデアがそこに入ってくるのはむずかしいよね。それで触れることみたいなことが、こういうことをとても自然な形で助けるんだと思う。同時に、教師自身がもっている質がモデルになって、そういうバランスのとれた状態になることを助けるんだと思う。そうすると、人は何かをとりいれられるようになる。人はそういうのが好きだし、より心地よく感じるのよね。私にとっては、ほかのやり方よりも触れることによってそういうことを助けるのが、やりやすいの。

 ー教え方は、教えるにつれて変化してきましたか?

 (少し考えてから)そうね。学ぶにつれて変わってきたわね。今までに話したようなことであるけど、同時に、自信(あるいは、起こっていることへの信頼= confidence)というのがどこからやってくるかということとの、バランスでもある。

 ー(一同)自信が、どこからやってくるって?

 自信がどこからやってくるか、それはわからない。でも、言えるのは、より自由になって、より、今ここに存在するようになることによって、自信がやってくるということ。でもそういうことはすごく難しい。 だから教え始めた当初は教えられた型のなかで教えていたよ。とくに個人レッスンではね。だいたいの場合、それはチェアワークであって、ライダウンのワークであって、とても単純な動きのワークだった。ある意味ではそれは今でもそうは変わっていない。ただ今は、生徒が質問したり、言ったりしたことからレッスンをはじめることが多い。私自身のアイデアからというよりもね。だから、レッスンで何が起こるかはわからないことが多いの。個人レッスンはそんな感じかな。

 そしてグループに関しては、私は教師養成のトレーニングを卒業してわりとすぐにグループのレッスンを教えはじめたの。私たちはグループを教えるとき、「このグループレッスンは単なる導入です」と言わないといけない、と教えられていたの。同じグループで10レッスンぐらいするときであってもね。最初にやったクラスのノートを今見てみると、今やっていることとほとんど変わっていないのよね。でも、今は私は、「これは単なる導入です」と言うのはふさわしくないと思うの。1回しかクラスをやらなかったとしてもね。もしかしたら来た人たちがそこから興味を持って、もっと学びたいと思うかもしれないけれど、それでも1回のクラスでも「その地点に学びがある」ということでないといけないと思う。私は「もしこれを勉強したらこういうようなことを学べますよ」というようなことをグループレッスンを教えるときに言うつもりはないの。私が教えられていたのはそういうことだったんだけれど。今はそうではなく「これが今学んでいることです。ちょっとしたことだけれどね」と言うの。

(註:最近は変化しつつあるが、少し前までは、とくに英国やヨーロッパではアレクサンダー・テクニークは一対一でひとりの先生について継続的にしか学べないもので、グループレッスンは、個人レッスンに来る前段階の紹介でしかないと考えられていた)。

 でもやっている形としては、昔と変わっていないですね。つまり、少し説明して、少し実験する―ゲームのなかで実験して、実際的な動きのなかで実験する。ただ最初のころは、グループで触れることはあまりしなかった。でも今は、触れることのパワフルさに気がついて、グループでもそれを含めるようになった。

 ーそうすると、アレクサンダーの教師のなかでは、1回だけのレッスンで本当に何かを教えることは不可能だとか、また、たくさんの人がいるグループで本当に何かを教えることは不可能だとか言う人もいると思うけれど、ルシアはそうは思っていないということですか?

 そうね、ある意味ではそうは思っていないかもね。そういう考えの先生と話したことがあるの。だれかがレッスンを受けたいと言って来たら、彼女はその人に、一週間に2回(3回だったかしら)、来ないといけないと伝えるそうなの。1週間に2回か3回のレッスンをかなり長い期間受け続けないといけないということだった。もしそれが無理だったら、それができる状況になるまで待ってもらうそうなの。

 私はそれを聞いて、少しショックだったのよね。私自身は、誰かが「2回ぐらいだけ、試しにレッスンを受けられますか?」と言って来たら、「どうぞ」と言っているからね。そして、2回のレッスンのなかで何かを学ぶことを、期待しているの。

 私のなかには、どちらの気持ちもあるわね。もうひとつの考え方のほうも理解できるの。アレクサンダー・テクニークはほかのものと違う、継続していくワークだから。アレクサンダー・テクニークは、「わかった。すべて理解したから大丈夫」というようなものではないの。アレクサンダー・テクニークは言ってみれば、永遠に変化を起こさせていき、ものごとを運んでくるものなの。

 だから、どちらとも言えるけれど、私は2回だけであっても、やってみる価値があると思う。可能性にひらいてみる価値があると思うから。ただそれは私がそういうふうにしているということだけであって、どちらのほうがよりよいのかはわからないけれどね。

 でも、私自身がどれほど学ぶ必要を感じているかということを考えたらね、だって、私は3年間の教師養成トレーニングをした後、16年かそこら教えているのよ。「それだけやっていまだに私が学べていないものを、4回だけレッスンに来た人がどうして学べるかしら?」と思ったりすることはあるわよね。だけどね、4回だけレッスンに来た人も実際、学ぶのよね。もしかしたらその人たちは、私より学ぶのが早いのかもしれない。もしかしたらその人たちは、私と少し違うものを求めていたからかもしれない。でもとにかく、4回だけレッスンに来た人でも学んでいるのよね。

 私が教えている夏季講習会で、大変なのがあるの。歌手の講習会で、1日に28人の歌手を、7人づつのグループに分けて10分づつ教えるの。7人づつが、お互いを観察したりすることになるわけだけど、私はそのとき、「こんなことやっても意味ない」と思ってしまったの。何の役に立つのか自分で教えていてわからなかった。でも翌年、そのなかの何人かはまた来て、「去年やったことがとても役に立ったんです」と言うのよね。またそのなかのある人はその後地元で、アレクサンダー・テクニークをさらに学べる場所を探したりしていたのよね。

 ー教えることをやめようと思ったことはありますか?

 教えるのをやめようと思ったこと?

 ーそう。もういいや。やめた、というような感じに。

 それは、なかったな。自分のために今でもテクニークを使っているからね。教えるのは学ぶためのとてもよい場所だから、それをやめるのは想像できないな。

 ただ、「私が教えたり学んだりしたいやり方はアレクサンダー・テクニークという形ではない」と思ったことは、過去にあった。尊敬する人たちがほかのことを学んでいるのを見て、私もそれを学びたいと思ったことはあった。でも、おかしいんだけれど、私が手放したくなかったのは、やはり、触れることだったのよね。触れることによって情報を分かち合うということだった。それ以外のことはほかの方法でもできると思うし、触れることを使ったほかの手法にも、すごく興味深いものがたくさんある。知っているアレクサンダーの教師のなかでもクレニオ・セイクラル・セラピーやクレニアル・オステオパシーや、そのほかのものをやっている人がいる。でも、そういうもののうち、 アレクサンダー・テクニークと同じ質のものはひとつもないのよね。

ルシア・ウォーカー・インタビュー その3に続く

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