ルシア・ウォーカー・インタビュー 2003年5月8日 東京にて その1

 ールシアはどういうきっかけでアレクサンダー・テクニークを学びはじめたのですか?

 思い出してみるわね。一番の理由は、もっと自由に動きたいということだったと思う。ちょうど、ほぼ同じころに、ダンスに興味を持ちはじめていたから。最終的に、あるダンスのフォームを教わった。それもまた、よい使い方を見るということだった。がんばって動くというよりは、動きのほうへ解放されていくということだった。そして、太極拳というものがあった。太極拳は、もっとエネルギー的な次元の動きだった。それで太極拳も習ってみた。何かの拍子に、ほんとうに違う状態に入ってしまった感じがしたときのことを今でも思い出せる。いつもよりずっと軽くて、満ちていて、ずっとパワフルな感じだった。それまでアレクサンダー・テクニークのことをいくらかは知っていたけど、それほどには知らなかった。でも、そのとき突然理解したの、たぶんアレクサンダー・テクニークがめざすものもこういう状態なんじゃないかな、って。それで急に興味をもちはじめたの。もしこういう状態にもっと楽に到達できたら、と思ってね。

 もうひとつ、動きに興味をもちはじめる前に、アレクサンダー・テクニークの教師のトレーニングをやってみようかなと思ったことがあったの。何をしたいのか自分で本当にわかっていたわけではないんだけれど、私は前から教育に興味があって、児童教育のトレーニングを受けていたことがあるの。でもやってみて、あまり私がやりたいことではない感じがした。それでも学びに関することには、いつも興味を持っていた。そして アレクサンダー・テクニークが、とてもおもしろい学びの方法に見えたの。

 ー学びつづける過程で、学びつづける理由は変わりましたか?

 変わったともいえるし、変わらないともいえるわね。たぶん理由の説明のしかたが変わっただけなんじゃないかな。これは教えるときによく話すことなんだけれど、どうしたら人間になれるか、なんていうことをよく話すの。人間であるということは、ほんとうにかけがえのないことだけど、ある意味とても私たちにとって難しいことなのよね。だからどうしたら全体的な人間になれるか、そして生きている意味をまっとうできるか、というようなこと。まぁ、それがどんなことか、少しでもわかりかけることができたらね。

 そして私は教えるプロセスのなかで、その人たちが自分自身をより全体的に表現するようになっていくのが見えるのが好きなの。これが一番私が好きなことかもしれない。私自身も自分自身をより全体的に表現するようになっているのを感じて、同時にほかの人たちも同じようにそうなっていくのを見るのが好きなの。

 ー個人的な経験として、アレクサンダー・テクニークを学ぶことが役に立ったと思われることはありますか?

 ええ。まず間違いなく、踊り方を学ぶ助けにはなったわね。それに、なぜ自分が踊りたいかを理解する手助けにもなった。そして、ああ、とてもたくさんのことがあるわね。自分がもっと幸せになる助けにもなったと思う。でも難しいけれどね。長い時間のなかで、もしそれがなかったらどうだったかなんてこと、わからないもの。でも確かにアレクサンダー・テクニークの原理は自分が人生に興味を持ち続ける方法をあたえてくれたと思う。それはつまり、知覚的な喜びということだと思う。何でも起こっていることのなかにある喜びを感じられるということだと思う。

 ールシアはアレクサンダー・テクニークのほかにもいろいろなことをやっていると思うんだけれど、ルシアにとって、あなたがやっているほかのことと アレクサンダー・テクニークはどう関係がありますか?

 私はアレクサンダー・テクニークのほかにたくさんのことをやっているからね。

 ーそれはアレクサンダー・テクニークだけでは求めているものが得られなかったから?

 どうかしら。(考える)でも、そうね。でもそういうものをはじめからアレクサンダー・テクニークに求めていたわけでもないし。アレクサンダー・テクニークが十分でない、というふうには思わなかったよ。むしろアレクサンダー・テクニークが、ほかの勉強などにもっと興味を持たせてくれたり、学べるようにしてくれたのよね。

 ダンスやコンタクト・インプロビゼーションは私にとって、とくにコンタクト・インプロビゼーションは、アレクサンダー・テクニークとお互いにサポートしあっていると思う。どちらかを学んでいなくて、どちらか一方だけを学んでいたということを、想像することができないもの。

 個人的なレベルでは、中国医学、とくにファイブ・エレメント・アキュパンクチャー(五行鍼灸)という、イギリスで発展した鍼灸の形態があるんだけれど、それに私は助けられている。どんなにこれに私が助けられているか、と、いつも思う。そしてそれはアレクサンダー・テクニークにはないようなやり方なのよね。でもその一方で、この方法にいつも私はフラストレーションも同時に感じるの。これは治療であって、介在者が必要だというところでね。何かやってくれる人が必要だということになるから。それで、自分にとってどれだけアレクサンダー・テクニークのありようが大事かということに気づかされた。 アレクサンダー・テクニークも、たしかにだれかほかの人との交流のなかで学ぶのだけれど、そのなかで、自分で自分のために何かを発見しているということがわかるからね。

 でもおもしろいと思ったのは、治療を受けはじめたころ、治療してくれた人~彼女はアレクサンダー・テクニークを知っている人なのだけど~彼女が言うには、エネルギーも、流れていき方の習慣を持っているんだって。そしてその習慣から解放されるためにはサポートが必要なんだそうです。私はこの鍼灸士との関わりからは、すでに知っていたことや新しいことや、いろいろなことをたくさん学んだ。

 もうひとつ、個人的にも、教えることに関しても、とても自分の支えになっていて、同時にアレクサンダー・テクニークがそれを学ぶための大きな支えになっているとも言えるものがあるの。それは、 「NVC-非暴力コミュニケーション」と言われている方法です。これは、とても、”今の瞬間”に関することなの。これは、コミュニケーションのことでもあるし、違いをあつかうためのことでもあるんだけれど、同時に、まずは人とつながることであって、自分自身とつながることなの。これをアレクサンダー・テクニークと一緒に学ぶことは、ほんとうに私自身に役立っている。言語的コミュニケーションにおける習慣にものすごく気づかされるよ。

 ーそれは言い表し方にかんするモデルなんですか?

 ある意味ではそうね。でも、学びつづけ、実践しつづけるにつれて、たしかに言葉のことではあるんだけれど、このモデルでは、「評価とレッテルというものが、私たちの言葉における暴力だ」と言っている。よい評価であってもね。誰かを何か固定したものにおさめてしまうことになるから。でも、これは言葉というよりむしろ態度に関することなの。自分が自分に何をしているか、話したりコミュニケートするときに、どういう意図を持っているかとかいうことなの。学びつづけるにつれて、だんだんそういうことがわかってきた。それで、少し楽になった。だって言葉のパターンを変えるのは、すごく難しいからね(笑)。実際、言葉の背後にほんとうには何があるかということを見ることができるようになってきたら、起こることも変わってくる。

 そして、ダンスは、ずっと教えてきて、今でも教えているし、自分でも踊っている。それがとても助けになっている。

 鍼もNVCも、学びはじめたころ、これを職業にしたいかもしれない、と思ったことがあった。どちらのときも、すごく興奮していたのだけれど、でも「いいえ違う。たしかに私がこれを学ぶのをやめるのは考えられないけれど、仕事としてやりたいのは、やらなくちゃいけないのは、アレクサンダー・テクニークだ」と思ったの。少なくとも今のところはね。

 ー(一同)それはどうしてですか?

 それが私が学んできたことだからというのと、それと、ティーチングという要素が入っているから。教えるということがあって、人が学んで、私も学ぶ―それが継続的なプロセスのなかで起こるから。NVCもそれは同じね。アレクサンダー・テクニークは触れるということがある。言葉以前のレベルで、身体的なコミュニケーションがある。これが私にとってはとても大事なことなの。それがどういうことなのかは、わからないのだけれど、同時に私はたしかにわかっている。これはとても実際的なことなの。毎日の生活のなかのこと、という意味での「実際的」ということだけではなくて、とてもフィジカル、身体的という意味で「実際的」。

言葉というのは難しくて、「身体的」という言葉を使うと人は、「じゃあそれは感情的なことではないんだね」「精神的なことではないのね」なんて言われるけれど、そういうことではないと思う。これはたぶん私の信念なんだけれど、身体ということをつきつめていくと、人のそのほかのすべての層をも表現するものとなっていくと思うの。だから、分けて考えているわけではないし、分けられるものでもないの。身体がより澄んだものになって、はっきりしてくると、すべての味わいのあることがらが身体を媒体にして流れ出てくるようになると思っている。

 ー私もそこのところに興味がある。アレクサンダー・テクニークの身体的な側面というのが、とても貴重だと感じる。でも身体的なところから入っても、身体的なところだけに影響するわけでなくて、分けられないから、 そこから入って心理的なところや精神的なところに影響していくというその可能性にすごく興味がある。それがどのように働いているんだろうというところを、もっとわかりたいなと思う。

 その前に、さっきの質問、なぜアレクサンダー・テクニークと言われるものを私がやりたいのかについて、最後まで答えるね。「その人全体」という考え方に基づいているからということもあります。そして、過去に起こったことを分析したりするのではなく、今起こっていることを観察するという考え方に基づいているから。アレクサンダーの中心的な原理として、今していることに目を向けるということ、そしてそれは、もし変えたかったら変えることができるということがある。私はこの原理がとても好きなの。 そして、言葉やコミュニケーションについても問いをなげかけている。これも興味深いところです。

 そして、さっきの身体的ということに関しては、私はいつも、人がこういうことについて「そうそう!」というのを聞いて、おもしろいなと思うの。 私がいつもアレクサンダー・テクニークという職業の難しいと感じることがあるのだけれど、それは、ほかのものと関係をもつことにとても抵抗があるということです。英国では特に、そういう傾向があることによってダメージを受けていると思うんです。「自分たちがやっていることは代替医療じゃない。自分たちがやっていることは医療ではないし、治療でもない」「私たちは大学や学校では教えない。単位を認めたり、試験をしたりすることはできないから。」「私たちはそういうものとは違う」というふうに言う。

 たしかに違うよ。だから私はアレクサンダー・テクニークをやってるの。そういうふうに、ほかのことには収まりきらないことだから。それでも私は、共通点を認識できないというのは悲しいことだと思う。共通点を認識することが、今もっともっと必要になってきていると思う。だから、人によっては「ボディワーカー」として認識されるのをよしとする人もいる。私はその言葉は好きではないけれど、でももちろん、体にはたらきかけている人も全体に関心があるのよ。体だけに関心があるわけじゃない。「ボディワーク」であれ何であれ、体だけに関心をむけているものはほとんどないと思う。ワークによっては、西洋医学のように、介入したり直したりするという意味で、より機械的なアプローチというのはあると思うけれど。だからアレクサンダーはいつも、「私たちはもっと間接的なアプローチでやるべきだ」と言っていた。だけど多くのほかのセラピーも間接的なアプローチなんだよ。だからこういうふうな社会的な認識において、分けることは私は悲しいことだと思う。

 そうは言ってもやはり、アレクサンダー・テクニークはほかのものとは違うものだけれどね。

 でも、おもしろいなと思うのは、人がアレクサンダー・テクニークについて語るとき『でも体をとおして全体にアプローチしていくでしょ』と言ったりするのがね。なぜなら私たちがアレクサンダー・テクニークを学んでいくなかではもちろん、「肝心なのは『考え(thinking)』だ」ってたたきこまれるわけだから。そうすると、どっちなのかしら? アレクサンダーの入り口は、体なのかしら、それとも考えなのかしら?

 アレクサンダー・テクニークのなかでも、教え方のスタイルの違いがあって、ある面を強調していたり、ほかの面を強調していたりするんだろうね。マージョリー・バーロウはよく神経組織について話していた。神経組織というのはとても、脳と考えと体の橋渡しになるものよね。

 私自身は、アレクサンダーが言っている、「人間の反応の質」というもののことをよく話す。私がこういう言い方が好きなのは、反応というのはすべてのレベルで起こるからなの。これは身体的なレベルだとか、感情のレベルだとか言うことはできないから。

ルシア・ウォーカー・インタビュー その2に続く

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