ボストン滞在中、学校が休みの週末(2001年10月16日,17日)に、バスでニューヨークに行った。ボストンからバスだと4時間。バスでは親子づれの小さい女の子と隣り同士になった。アメリカに来てからよく、街で会った人に声をかけられたので、私もそれを真似して、”How are you?”と女の子に声をかけてみた。でも女の子ははにかんで笑って照れるだけだった。彼女は英語がわからないようだった。英語じゃない言葉で前の席の両親と言葉を交わしていた。後になって女の子は、休憩時間のとき売店で買ったフライドポテトを私に差し出してくれた。「もういいからね」と身振りをまじえて断るまでいくつもくれた。
いつのまにか高速道路から出て、街の中を走っていた。外を見たら黒人の子どもたちや大人たちがゆったり歩いていて、壁にカラフルな色で絵や文字が書かれている建物がある。Harlemナントカと壁に書いてあった。ハーレム、ニューヨークだ!
午後1時にニューヨークに着いた。AT教師の佐季子さんと、そのパートナーのマットが迎えに来てくれた。はじめてのニューヨーク。ボストンも同じように都会だけど、やはり街ごとに、住んでいる人たちの雰囲気がどことなく違う。私にはニューヨークの人のほうがゆったりとしている感じがした。休日のせいかもしれないけれど。太ったおばさんとか、鼻歌を歌って歩いている青年とか。
◆世界のどこであっても
ちょうど、その日は戦争に反対する集会が公園ひらかれるとのことで、それに行くことにした。
途中、ブレイクダンスを踊っている黒人のグループがいて、人だかりができていた。きれいな身のこなしが素敵だった。屋外アイススケートリンクの前も通った。まだセーターも必要ないくらいの気温だというのにスケートを楽しんでいる人たちがたくさん。リンクを凍らせるのが大変だろうな。
少し遅れて会場の公園に着いたらソウルフルな歌声が聞こえてきた。トシ・レーガン(Toshi Reagan)だった。アフリカ系アメリカ人の女性ゴスペル・シンガーだ。スピーチをする人たち、歌う人たちが次々と続いた。私にはスピーチも詩のように聞こえた。主張は明快で私にも英語でもよくわかったのと同時に、地に足が着いている感じなのがよかった。望まないことが次々と起こっている状況のなかでも、ただ嘆いたり怒ったりするのではなく、希望を見ていっている人たちがいるということに勇気づけられた。
メッセージの内容は人によってさまざまだったが、共通していたメッセージは、「そこが世界のどこであっても、殺戮は止めてほしい」ということだった。
「メディアを信じるな」という言葉もよく聞かれた。
アメリカでその時期、テレビがついているのを見ると(←自分ではつけなかったが)、私はなんというか、元気がそがれる感じがしていた。次々に出てくる話し手が興奮しながら、テロがいかに恐ろしいものであるかとか、次のテロはもっと恐ろしいものになるだろうとか、そしてそれを力で封じ込める方法について話すのを見るのは、いい気分がしなかった。
でもメディアに出てくるアメリカ人がアメリカ人を代表していると思う必要はないんだなと思った。「メディアを信じるな」というメッセージが心にしみた。
(後でアメリカの友人にそんな話をしたら彼らは、「私は事件の後、テレビを見ないで、新聞を読むことにしている」とか、「僕はアメリカのテレビは見ないで、イギリスのBBCを見ることにした」などと、それぞれなりに工夫していた。)
歌う人はそれぞれ、持ち歌を1曲だけ歌った。老齢のフォークシンガーもいた。歳を重ねても、全然枯れていない。(伝説の!!)ロック歌手パティ・スミス( Patti Smith)も来た。パティ・スミスは歌う前のスピーチからして、声に力があった。そして「メディアを信じるな。この戦争に反対している人はアメリカでほんの数%かもしれないけど、それでもパワーは私たち、君たちにある!」と言って “People have the Power”という 80年代の自身の曲を歌詞をアレンジし直して歌った。生ギターの伴奏でひとこと、ひとこと、噛みしめながらといった感じに歌った。
その場に集まってきている人たちは老若男女で、人種も黒人、白人、ラテン系、アジア系、中東系と、ニューヨークの街をそのまま縮めた感じだった。その日に集まったのは3~400人ぐらいだったか?「今日は小さめの集まりだったけどね、毎週末、こんなような集まりが、大きいのやら小さいのやら、ニューヨークのどこかしらで開かれているから、忙しくてね」と、マットは笑って言った。
◆鈴を持って歩く – War is Not the Answer
スピーチと歌が終わると希望者は街を歩く。歩く人はちっちゃい銀の鈴を渡された。それを鳴らしながら歩くリズムに合わせて “War is Not the Answer”などとライミングしながら歩いた。ニューヨークの歩道は広いので数人で並んで列になって歩いても他の歩行者の邪魔にならない。道ばたでアクセサリーなどを売っている人や、お店の売り子さんのなかには、手を振ってくれる人もいた。一方、 “War! War!”とこちらをにらみ返して叫ぶ若者もいた。
行き先はもう一つの公園だった。その公園の真ん中には、事件で行方不明になっている友達の写真やメッセージが、花とろうそくに彩られて飾られていた。行方不明の日本人の写真もあった。メッセージを見ていたら若者が声をかけてきた。「最近はこのメッセージや花が、毎日、朝になる前に公園課の人によって片付けられてしまうんだよ。公園課に対して片付けないように要請しようとしているんだけど、サインしてくれないか?」と言われ、サインした。
◆一日、ニューヨークの街を歩く
次の日曜日は佐季子さんと、朝から夕方までニューヨークの街を歩いた。佐季子さんの家があるブルックリンから歩きはじめた。「ブルックリンはニューヨークのなかでも特にいろいろな人種が混ざり合って住んでいる地域なんだよ」と佐季子さんは教えてくれた。中近東の人たちの多いブロックも近かった。佐季子さんは、「ムスリムの人に対していやがらせがあるんじゃないかと心配したけど、見たところ変わりがないようでよかった」と言っていた。ただ、おいしいお茶を売っているという中東系の雑貨屋は日曜日のためか閉まっていて残念。
佐季子さんとは、彼女が東京にいたときからATの先生として、先輩として、友人として、いろいろお世話になったり、話をしたりする機会は多かったが、こうやってニューヨークで話しながら歩くのは、人間はお互い変わらないはずなのに、どこか、とても新鮮だ。彼女は今、フィジカルセラピストの勉強もしていて、今ニューヨークの病院でインターン中だ。
ブルックリン橋を歩いてマンハッタン島に渡った。橋から崩れたビルの残骸が見え、煙が燃えているのが見えはじめた。焦げるような臭いもしてきた(もう1ヶ月経つのに)。行けるところまで、崩れたビルの近くまで行ってみることにした。あまり近くには近寄れない。ぐるっと回って行ったら、遠くのほうで瓦礫の撤去作業が行われているのが見える場所があった。フェンスで囲ってあり、警察や軍の人が「ここからは入らないで」と言ったり、見に来た人の質問に答えたりしている。ビルの形は残っているけど残骸になってしまっているビルと、瓦礫の山と、煙で中まで真っ白になった車などがあり、白い埃のなかで手作業(!)で瓦礫を車に積み上げている人が遠くに見える。作業をしている人の健康は大丈夫だろうか?
そこから地下鉄に乗って、2、3駅先で降りたら中華街だった。中華街では今まで見てきた光景とはうってかわって、生き生きと人々が行き来していた。何でもビジネスにしてしまう中国人(?)が、星条旗の柄のTシャツやバッジを売っていた。おいしくて安い中華料理を食べた。それからまたメインストリートに出た。ニューヨークの街にはマクドナルドやスターバックスなどのチェーン店が少ない。個人商店ががんばってる様子だった。そんな落ち着けるカフェのひとつでおいしいカプチーノを飲んだ。
きのう集会があった公園にまた出た。どこかから歌声が聞こえてくる。行ってみたらレイドバックしたフォーク・ミュージックを演奏しているおじさん達と、ソウルフルに歌い上げる黒人の混ざった不思議なグループだった。「へぇ、おもしろい音楽だね」と思って聴いていると佐季子さんが、「あの黒人のシンガーはいつも、どんなグループが演奏していても、そこに来て混ざってハモって歌っちゃう人なんだよ」と教えてくれた。へぇ、もともとそのグループのメンバーじゃないのか。でも、全然違和感がない。そういう一味違った演奏をする個性的なグループなんだと思わせてしまうものがあった。歌うまいし・・・。そういうハプニングを平然と受け入れちゃうおじさん達の包容力も、すごいなと思った。ニューヨークの街には、どこかそういう力がある。そういうところがとても好きになった。見ていると黒人は、数曲歌って、おじさん達に笑って手を振って去っていった。