アレクサンダー・テクニーク教師として、触れること

先週、西宮で「触れること(ハンズオン)」をテーマに、アレクサンダー・テクニーク教師のためのワークショップを開催しました。

京子さんがホールドしてくださる素敵なスペースのなかで、2日間のワーク。じっくり学びが深まる、味わい深い時間になりました。

 

教師といっても、アレクサンダー・テクニーク教師は、いわゆる一般的な意味の教師とは違い、正しい方向に導くためにそこにいるのではない。触れるのも、その人が自分自身に気づくためのサポートとして、触れます。

 

まず、みなさんとシェアしたのは、「触れること」はテクニックである前に、自分全体がそこにいて、相手全体と出会っている、ということです。そのシンプルな認識からはじめると、何かが起こるかもしれない。どこに触れるかとか、どう触れるか、ということはそんなに大切ではないのです。

 

そういうことをシェアしつつ、座っているところから立つ/立っているところから座る、そのシンプルな動きに触れることや、上腕にただ触れて、動きが自然に出てくるのについていくことや、仰向けになっている人へのワーク(テーブルワーク)などを探求しました。詩を読んだり、楽器を演奏している人へのワークも少ししました。

 

お互いに触れる探求をしていくうえで、「思う(thinking)」ということがどれほど繊細で、軽やかで、そして強力なものであるか、という驚きの声が出てきていました。

思いがすぐに伝わるということが、やってみるなかでわかり、「今までは『念じていた』けど、そんなことしなくてよかったんですね!」と、参加者のおひとりが驚きの声をあげていました。

うまくできているかを気にしなくても、「あ、忘れてたな」と気づくだけで、「思い出した」ことが相手に伝わっていくので、完璧さは必要ないのです。

 

日本語で「思う」というのは、ちょっと強めのニュアンスで使われることが多いかもしれません。が、軽やかな質の「思う」こと、それが、自分とのかかわりのなかでも、他者とのかかわりの中でも、はたらいているのですね。

 

(今、読んでいるアレクサンダー・テクニークの古典といえるような本、フランク・ピアス・ジョーンズの”Freedom to Change”のなかにも、この「思う(thinking)」がでてきていて、このthinkingは、日本語にしないままのほうが伝わるかもね、と、つい最近、翻訳者のなおこさんと話していたところです。)

 

教えるなかで、迷いや不確かさが出てきたときには、その迷いも相手に伝わりますが、だからといって「あー、まずい」と否定的に思う必要はなく、かわりに、「わからないから、実験してみましょう」と思ってみると、その思いはいつのまにか、明晰さに変わっています。

 

触れているときだけが大事なのではなく、触れる前からすでに始まっていて、触れ終わったあとにも関係性は続いている、ということについてもシェアしました。

 

相手のために何かをしてあげるためではなく、その人が自分に気づくためのサポートとして、触れる。

 

アレクサンダー・テクニークを教えるために必要なのは、「自分の面倒を見ること」と「その人に寄り添うこと」と言われることもあるけれど、私は、自分と相手を完全に分けるのではなく、自分と相手の、あいだに起こっていることに注意を向けてみることを、今回、お誘いしてみました。ときに揺らぎがあったりする、関係性のなかで、長年の習慣から離れて、ほんの少しの一歩を踏み出せるような瞬間があらわれたりします。

 

そんなことも含め、触れることも「やりとり」のひとつとして、対話や、一緒に実験することなどとともに、自分自身に気づくための頼もしくも味わい深い方法、だと思います。

 

 

この場をご一緒できた皆さんと、また、学びを深められる機会があることを楽しみにしています。

 

アレクサンダー・テクニーク教師とトレイニーのためのハンズオンのクラス、次は東京で2時間の短いクラスをやります。

4月10日(木)16:00~18:00 

東京と神奈川では、短いクラスを継続的にやっていきたいと思います。

興味をお持ちの方はぜひお問合せください。

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