近藤ヒロミさんのカリンバ

近藤ヒロミさんのカリンバ

・9/10 近藤ヒロミさんのカリンバのライブ@千駄木・古書ほうろう

近藤ヒロミさんのことは知らなかったのだが、その4日前にうちの近所のネパール料理屋でライブをやったとき同居人のNが行ってきて、すっかり気に入ってしまってまた行くというので、そんなに良いならと私も行くことにする。

行ってよかった!!

近藤さんは、ご自身とカリンバの最初の出会いを、
「バスや船をのりついで、アフリカを旅していたとき、小さな町に着いて、物売りや、子どもを背負った母親たちをぼんやりながめていたら、ビンビコビリリン ビンビコビコ とおくからきこえてきた」 と、言っていた

近藤さんのコンサートも、そんなふうに、どこかから聞こえてくる音楽を聴いているみたいな感じだった。
本棚が並んだ古本屋の奥のスペースをあけて、そこで、椅子に座った近藤さんを囲んで聴く人が床に座っている。 私達は、あえて床には座らず、本棚と本棚の間に立っていた。(後からお店の人が椅子を持ってきてくれた。)

蚊にさされて、かゆかった。
お店の人に言ったら、「いつもいるんですよ~、強力なのが。でも蚊取り線香しかなくて、蚊取り線香は声に悪いかもしれないから~」と、言われたので、「あ、そうですよね。大丈夫です」。
Nがラベンダーオイルを持っていて、それをつけたらかゆみはおさまった。でも長袖をはおって防衛しておいた。 (でもお店の人が蚊を全然気にしていない感じは、悪くなかった。)

近藤さんの音楽は、どこからともなく聞こえてくるみたいに聴きたかったので、本棚の本を手にとったりしながら、聴いていた。

本の森のなかで、音楽を聴く・・・

(おかげで気になる本を何冊か見つけて、買ってしまった。)
—–

なんというか、ミュージシャンと観客の関係って、観客をミュージシャンが注目することで成り立つ、みたいな図式が成立している感じがあるけれど、近藤さんのライブは、そういう感じではなかった。
近藤さん自身、注目されることを全然、期待していない感じなのだ。 カリンバを弾きながら歌も歌うんだけれど、歌も、とても小さい声で、ほんとの鼻歌みたいに歌う。
それが、いいんだよな。

—–

私も小さいころから歌うのが好きで、でも大きい声が出ないから歌うひとにはなれないな、と、もう少し大きくなってからは思うようになった。
アレクサンダー・テクニークをはじめてからは、声を出すのはずいぶん、もっと楽になったのだけれど、 でも、はじめから大きい声を出そうとしない、という選択肢も、あるんだよな。
歌というのは大きい声で歌わなくてはいけない、というのも、固定観念かも

—–

それな~に? どんな音がするの?
と言われて、
こんな感じ~
と、弾いてみせてるだけ、
というようなコンサートだった。

でもぜんぜん、退屈しなかった。
時間がゆったり流れて、ふだんの生活時間を背負ってやってきた私を、少し変えてくれた感じ。

—–

カリンバを弾いているときに、ビヨビヨ、と、ときどき雑音みたいな音がする。
以前、レコードで聴いたとき、この音は、マイクのハウリングかなと思っていた。
でも、実はその音は、カリンバに、空き瓶のふたとかをくっつけて、わざと出しているのだった!
それがわかったのも、とてもおもしろかった!

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『春は鉄までが匂った』

『春は鉄までが匂った』

『春は鉄までが匂った』
2004
筑摩書房
小関 智弘

町工場に勤める職人をつづけながら物書きをしている人のことを聞いて前からこの著者のことは気になっていた。この本はタイトルにひかれたこともあって、とうとう買って読んだ。とてもよかった!

機械のツマミなどの、部品をつくるのも、花を育てたりするのと同じように、物にたいする繊細な気遣いがないとできない仕事。だからというのもあるのか、文章がとてもきれい。

私なんかは機械のことはぜんぜんわからないから、町工場がある町の雰囲気は好きだけど、それ以上のことはわからない。でも、本から職人さんの繊細な気遣いが、伝わってきて、ゆたかな世界に少し触れられるような気がして、どんどん読んでしまう。

3Kといわれるようなきつくて安い、不安定な仕事、でもなくてはならない仕事。そんな仕事を誇りをもって支えてきた人たちがいる。

ちいさな仕事を、ていねいにしようという気持ちになる。

著者の小関さんは、直木賞候補にもなって、「もう工場はやめて作家でひとりだちしたら?」と、何度も言われたそうだ。
でも、「自分にとって工場をやめて物書きだけをやるのは、パンツを穿かないでズボンを穿くようなもので、恥ずかしいし、落ち着かない」という。

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食べること

食べること

胃の調子をわるくしてから、月に1回、中国医学の先生に観てもらいにいってる。中国式マッサージをしながら観てくれる先生だ。

おとといも行ってきた。
調子がいまひとつだったので、ちょうどいいタイミングだった。

「水分とりすぎていませんか?
胃に水分がたまっちゃってますねー」

思いあたることはすぐにあった!
ラーメンだ!
とげぬき地蔵の台湾ラーメンにはまって、1週間ちょっとのあいだに4回も行ってしまっていた。
いくらよけいな添加物が入っていないラーメンでもなあ。
それに台湾ラーメンは、大きいどんぶりに入って出てくるので、量が多いのだ。「麺は少なめに」と頼んだのだけどね。

どうも、気に入るとリピートしてしまう「リピート現象」に、私は陥りやすい。

先生は、「ラーメンを食べるこつは、汁をぜんぶ飲まないことですよ。」と、優しくいってくれたけど。

——

中国医学のお医者さんに最初に行った6月には、
「辛いものをひかえるように」
といわれて、そのとおりにした。
8月には、
「甘いものをひかえるように」
といわれて、そのとおりにした。

そのとおりにすると、体調はよくなる。
「さすがアレクサンダーをやっていると、変化が早いですねぇ」なんて、お世辞かもしれないけど、ほめられたりもした。

でも、次々と、違うものをとりすぎていたら、しょうがないじゃないか、自分。

もっと言われる前にわかるようにならないと。
体の声を聴かないと。

——

前に食べておいしかったものを食べつづけるのも、
いいんだけど、下手すると、「おいしかったときの記憶」を食べているようなふうになって、今の体の声を聞いていないことになってしまうこともある。

気をつけなくちゃな。

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sketch of shimokitazawa

sketch of shimokitazawa

sketch of shimokitazawa
2005
曽我部恵一
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000BV7U4C/

下北沢はステキにごみごみした路地の多い、庶民的な町で、ミュージシャンやアーティストも多く住んでいる。そんな下北沢に大きな道路をつくる再開発ばなしが浮上しているらしい。http://www.stsk.net/
その計画に反対する意味もあってつくられたこのCD

― と言っていいのかどうかはわからない、というのは、このCDの内容は、とても穏やかで、ここに住んで生活していることのよろこびが、淡々とつづられている。

なかには、「有名な踏み切り」という短いエッセーが綴られている。下北沢にある開かずの踏み切りの話。踏み切りが開かなくて、ふつうなら人は怒るところなのに、なんかこの踏み切りへの愛情が感じられるエッセー。

それからCDのなかで、「下北沢の道路の計画についてどう思いますか?」と、曽我部さんがだれかにインタビューをしている。でもよく聴いてみたら、インタビューされているのは、「小鳥のチイコさん」だった。チィチィ、と、インタビュー答えている。

そう、道路の計画の影響を受けるのは、人間だけじゃないもんね。

そのほかの曲たちは、とくに下北沢の固有名詞などは出てこないけれど、普遍的ないい曲だ。演奏は、かっこいいベースが入った「七月の宇宙遊泳」と、女性ヴォーカルの入った「Oh!ブルーバード」以外は、曽我部くんがひとりで演奏している。アレンジもシンプルで、家のなかで撮りましたというような感じ。

どれもシンプルな曲なのに、ちっとも単調に聞こえないのは、曽我部さんの才能かもしれないけど。。

手元にあるものが、そのまま音楽になる。
そのことの、かけがえのなさ。

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体力ついたかな?(ワールドワーク報告その1)

体力ついたかな?(ワールドワーク報告その1)

きのうはかなり蒸し蒸しした日でした。
私はこういう日はとても苦手、な、はずなのですが、不思議ときのうは全然つらくなくて、そんなに蒸し蒸ししているのも人に言われてはじめて気づくぐらいでした。

ゴールデンウィークに、オーストラリアのシドニーで、「ワールドワーク・セミナー」というのに参加してきたのですが、それで体力がついたのかな? 体力がついたというか、健康になったというか。。

それに、ちょっと痩せたみたいです。
すごくお腹がすくので、肉料理とかを毎日いっぱい食べていたのに、ズボンのベルトがゆるくなっているのが、とても不思議!

最近、お腹が気になっていたので、うれしいです!

いや、べつに運動のようなことは何もしていなかったのです。10分ぐらいバスケットボールで遊んで、30分ぐらい海に入ったほかは。。基本的に人の話を聞いているのがほとんどです。

でも、話を聞いているだけのときであっても、受け身ではいられないーかといって別に何か反応しなければならないわけでもないが、なんだか他人事として聞けないのです。

いろいろな国からいろいろなバックグラウンドをもった人たちが集まって(30数カ国から300人弱が集まった)、毎日、いろんなテーマについて、話し合います。

話し合い、というのもちょっと違うかもしれません。
少なくともなにかの解決をめざすような話し合いとは違うのです。
その”場”にある、対立したり異なったりするロール(役割)をピックアップして、そのロールに、あえて”なってみる”
そうすることによって、異なるロール同士が、お互いに理解を深めて、自分がいる場についても認識をふかめていく。

気づくことができれば、場は、自然に変化していく、という考えにもとづいているのは、アレクサンダー・テクニックと共通するなと思います。

たとえば「支配者」と「被支配者」というロールがあったとすれば、「支配者」のロールに自覚的に、”なってみる”というのは、とくに難しい場合が多いけれど、でも自分のなかにも被支配者的な部分と支配者的な部分はもしかしたら両方あるかもしれない、そういうふうな目で見て、自分のそういう力に自覚的になることで、力をどう使いたいかをあらためて考え直すきっかけになる、

ロールは固定しているわけではなくて、変化しえる、立場が違えば自分もそっち側に行くこともある、
だから、自分の気持ちが動いたら、こっちのロールからあっちのロールに移ったり、観ている人がぽっと入ってきたり、出てきたり、流動的なのです。

(もちろん大変なプロセスのときは、なかなか動くことができませんがー動けないこと自体がプロセスだということもありますが)

そんなような感じです。

だからどんな問題でも他人事と感じられなくなってきてしまう(実際、他人事じゃない場合がほとんどなんだけど)。

でも、だから大変かというと、もちろん大変なんだけど、
なんだか世の中に対する無力感みたいな気分から少し解放されて、ちょっと体力がついたみたいな感じがあって、悪い気分じゃない。それで具体的にどうするとかいうことがあるわけでもないのだけど。

そうはいっても最初からそうだったわけではなく、最初の2日ぐらいは大変だったし、後半になってきてやっとそう感じるようになってきました。

テーマとしては、
・アボリジニと白人
・女性であること
・”沈黙”の声/言葉の問題
・虐殺について
・ホモフォビア(同性愛嫌悪)/ヘテロセクシズム
・核/放射能
・”日本”について(小グループ)
などなどがありました。

こうやってあらためて書いてみると重いテーマが多いなあ。
またもう少しくわしく書けたら書きます。

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