『循環と共存の森から―狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵』

『循環と共存の森から―狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵』

循環と共存の森から―狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵
2006
新評論
船尾 修

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794807120/

アフリカの熱帯雨林のなかでも、もっとも原生林が美しいといわれる森に住んで、狩猟採集の暮らしをつづけてきた、ムブティ・ピグミーの人たちと一緒に暮らしをひとりの日本人が取材した本。

本の後半の7章~9章あたりの、ムブティの人たちの生活の描写がとくにすばらしい。
私達の先祖も、こんな暮らしをしていたのかな?と、思いを馳せた。

しかし、あえて、今までの研究者のつてを頼らず、いわば、いきあたりばったりで森に入っていった筆者が、その狩猟キャンプにいきつく前に最初に入った村は、カトリックの神父の西洋人がボランティアでサポートしていた村で、その神父は善意からなのだけど、、「狩猟採集に頼る暮らしは不安定だから、彼らの将来のためにならない」と、『労働』の概念をムフディに教えて週休6日制をしいたり、『ボス(リーダー)』の概念を教えたり、いろいろな介入をしていた。そういうことと、ムフディの生活の関係が描かれているのが5、6章。このへんも、考えさせられる。

しかし最終章では、外国企業の森の伐採計画が進もうとしているという、世界同時進行で起こっているせつない話と同じ話。これからどうなってしまうんだろう?

でもエンディングには、神父のサポートによって、いったん狩猟採集の暮らしを捨てたムフディたちが、神父が国に帰った後ふたたび筆者が訪ねたら、シャツを脱ぎ捨て、狩猟採集の暮らしに戻っていたというエピソード。

写真もすばらしい。

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技術力―サッカー世界のスタープレーヤー

技術力―サッカー世界のスタープレーヤー

技術力―サッカー世界のスタープレーヤー
2005
出版芸術社
西部 謙司

http://www.amazon.co.jp/dp/4882932733/

言葉にならないことを言葉にするというのは、うまくハマるとほんとうに面白い!

サッカーの現在の世界のスタープレーヤーの持つ技術を一人一人、言葉だけで描いた本。写真もイラストも全くなく、ポートレイトの絵が何枚かあるだけ。

04-05年に活躍した選手が中心なので、名前と顔はだいたい知っているが、どんな技術を持っているかまでは、そんなにディープなファンではない私はよく知らない人が多い。それに私はサッカーをプレイしないので体験的にもわからない。それなのに、読んでなんでこんなにおもしろいのか不思議。

著者自身も、戦術のように、意図があってそうする、ということのほうが言葉にしやすい、と言っている。「それが技術となると、言葉を重ねれば重ねるほど本質から遠ざかっていく」。でも技術について語るのは単純に楽しいのだ、という理由で書いた本のようだ。

その楽しさは伝染したみたいだ。

—–

ロナウドの項で、
人間の考えるスピードは体が動くより圧倒的に速い。なので、ストライカーは、自分の動きが遅く感じて、つい焦りが出て、打ち急いでベストフォームでない状態で蹴ってしまい失敗してしまう。でもロナウドはそういう打ち急ぎの失敗が少ない。想像するに、ロナウドのこの落ち着きぶりは、筋肉の反応速度の遅さからきているのではないだろうか。またロナウドは、「自分が遅い」という感覚が少ないのではないだろうか?

というところは、アレクサンダー・テクニーク的で興味深かった。

私(石井ゆりこ)のアレクサンダー・テクニークのサイトはこちらです。

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エヴァンジェリンのATと音楽

エヴァンジェリンのATと音楽

週末、ニューヨークから来日中の、エヴァンジェリン先生のワークショップにまた行ってきました。
ニューヨーク・フィルの現役チェリストで、アレクサンダー・テクニーク教師の人です。ニューヨークフィルの団員や、ユース団員の人たちを中心にアレクサンダーを教え、演奏をしている人です。

今回、エヴァンジェリンに会ってよかったことは、アレクサンダー・テクニークは手段であって目的じゃないんだな、ということをあらためて思い出させられたことです。

彼女のミュージシャンへのワークを観ていて、ミュージシャンにとって一番大事なのはいい演奏をすることで、彼女の一番の興味もそこにある、ということがよくわかる。

だから、と言ったら乱暴かもしれないけど、アレクサンダー・テクニークのワークとして観れば、けっこう単純化したワークだなあと思うところもあったし、荒っぽいワークなのです。
アレクサンダーのワークの持ち味の繊細さは、そこにはなかった。(いいすぎかな? エヴァンジェリンのダイレクトなしゃべりかたがうつったかも)

でも、この場合、それはそれでいい、と思った。

もちろん、時間をかけて回数をかさねてアレクサンダー・テクニークのレッスンをすれば、より深いところや、繊細なレベルで変化が起こったりするだろう。

でも、単純な原理として役に立つことを2、3、覚えておいて、あとは演奏のなかで応用しながら、いろいろ発見していく、という方法もある。

エヴァンジェリンは、原則的なところは、シンプルに済ませて、実際の音楽があらわれてくるのをサポートするような仕事に時間を割きたい、と思っている感じだった。そしてその仕事は、アレクサンダー・テクニーク教師としてというよりも、音楽家として彼女ができることなのだ。

ミュージシャンに音楽的なアドバイスをして、そのミュージシャンらしい音楽が出てきたときのワークはすばらしかったな。

——

私なんかは今、アレクサンダー・テクニークを教えることが仕事になってて、今のところ他に仕事はないのだけど、ひとつのことを仕事にすることの落とし穴ってあると思う。

そのことを、極めたい、と思うこと。

それはもちろん悪いことじゃないけど、それで本末転倒になって何が大事かわからなくなる、という落とし穴はある。

専門家、ということの落とし穴かな。

——

ほかに仕事もないから、私も人からみたら、専門家のはしくれに見えるかもしれないけど、いつもはじめたときのような気持ちでいたいし、私が知らないこと、できないことへの敬意はいつももっていたいな。

知らないことや、できないことに出会ったとき、それを「知らなきゃ」とか「できなきゃ」とか思う前に、知らないこと、できないこと自体をたのしむ余裕を、新しいことを教わっている時間自体をたのしむ余裕を、できるだけもっていられたらいいな。

私(石井ゆりこ)のアレクサンダー・テクニークのサイトはこちらです。

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新しい年をむかえる

新しい年をむかえる

昨晩、除夜の鐘がほのかに聞こえてくるなか、12時きっかりになると、♪テケテントン テケトン テントントン♪ と、お囃子の音がきこえてきました。むこうの丘にある八幡さまからです。

♪テケテントンというのに、不規則に、♪ボーン という鐘の音が重なり合うと、鐘の音が合いの手のように聞こえて、なかなか楽しいのです。

(一昨年はこのテケテントンの音がどこから聞こえてくるのかわからなくて、急遽、寒い中音のするほうをたどって神社まで行ったのでした。ふだんはひっそりとした神社なのに、意外にもお参りの人が神社の階段に行列していて(わんちゃんを連れた人も多かった)、私たちも一緒に並んだのでした。上についたら、獅子舞がカクッと私たちの頭を一人づつ噛むしぐさをしてくれました。これが一年のお守りになるそうです。
そして竹の筒に入ったお神酒と、豚汁を(無料で)いただいたのでした。)

昨晩は神社には行かずに、テケテントンを聞きながら朝まで眠ってしまいました。

年末年始は、静かなので好きです。

いや、いつもこの家のまわりは静かなのですが、なんか、気がちがう気がするのです。仕事(会社とか、経済活動の)をしているところが、日本中で、少ないからかな?

静かな気のなか、大掃除をして、お節をつくって、おそばを食べて、新年を迎えました。

大掃除、はじめると楽しくなる。
来年はもっと仕事納めを早くして、もっと隅々まで掃除したいな。
(ふだんの掃除ができてれば、という声も自分のなかにあるけど、歳の瀬の気のなかでやる掃除は、なんかとくべつな気もするのです。)

おせちは、去年より品数が少し増えました。
今年は、甘みを砂糖のかわりにはちみつでつけてみました。
なかなか、いけます。

—–

あけましておめでとうございます♪

ひとりひとり、出会えてうれしかった人ばかりです。
なかにはごぶさたしてしまっている方もいますが、
なかなか連絡できない方のことも、けっこうよく考えたりして、そうすると勇気付けられたりしていることも多いです。
よく会える方がたも、いつもありがとう。
今年も、よろしくお願いします。

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治さない、治せない

治さない、治せない

「アレクサンダー・テクニークは治療ではない」と、よく言う。
実際治療じゃないし、私はその治療じゃないというところが好きなんです。

でも、ワークすることで、症状がよくなったりする場合がある。

それは施した術の結果ではなくて、本来あるべき姿が取り戻ってきたからだったり、その人のなかで、いろんな要素がより統合されたからであったり、余分な努力や不必要な力を手放すことができたからだったり、ということなわけです。

レッスンはそのきっかけになる刺激だったり、情報提供だったり、交通整理だったりにすぎないんだと思います。

でも、症状がよくなることを期待して「早くよくなれよくなれ」と思いすぎると全然よくならなかったりする。

「よくなりたい」という思いからもちょっと離れて、まずは症状と共存しようというぐらいのところにいるほうが、少しづつ変わっていきやすいようです。

* * * * *

さて「治療じゃない」ということについてですが、最近、アレクサンダー・テクニークとかだけじゃなく、医療に携わる人も、「治さない」ということを掲げる人があちこちで出てきているようなのです。

最近では、がんの医療に携わる人がそう言っていたのを読んだり、
あと、「べてるの家」という、精神病の人たちが集まるグループホームと病院の連携の本にも、「治さない、治せない医者」をモットーにしているお医者さんが出てきました。

この「べてるの家」の本
安心して絶望できる人生』(NHK出版 生活人新書)
には、すごく、はっとさせられることがたくさん書いてあるのですが、この「治さない」というのもその一つです。
結局、専門家といえども他人がその人を「治してあげられるはず」「治せなければいけない」と思うのは、やっぱり思い上がりなのかもしれないな、と、思います。

ここに出てくる人たちは、「治せない」ということを覚悟していることで、なんだか、起こっていることについての畏怖の念みたいなのを排除していないように見えます。

たとえば幻聴に悩まされている人たちが、幻聴を「幻聴さん」と呼ぶようになって、幻聴さんとの付き合い方を学んでいく。幻聴さんを乱暴に扱ったりしないで、たとえば、「今はすることがあるので、帰ってください」とか、幻聴さんにていねいに話しかける。。

それと、病気の当事者が自分の病名を自分でつけたり、

(いろんなユニークな名前がありました。
「人間アレルギー症候群」とか、
「魔性の女系人格障害見捨てられ不安タイプ」とか、
「統合失調症爆発型救急車多乗タイプ」とか。。)

自分の病気を、他人の目ではなく、自分の実感で把握していくプロセスが大事にされている。そして、「当事者研究」とかいって、同じような病気をもった人同士で、自分の苦労をわかちあい、どうすればいいか実験し、研究していくことが大事にされているのです。

そういうことを、ここのリーダー的存在の、ソーシャルワーカーの向谷地生良さんは、「本来の自分らしい苦労を取り戻す」と表現しています。

専門家や、薬の助けも借りるけど、頼りきりになるのではなく、まずは自分のするべき苦労をする、そうできる場がある。

そういう場では、なんだか、病気なのにみんな生き生きしていて、病気なのに病んでいない、そんな感じがしました。

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