「やめていく」は、ストイックなこととはかぎらない。その人が「あらわれてくる」こと。(札幌ワークショップが終わって)

札幌のワークショップ、今回新しくいらしてくれた方々と、今までもいつも参加してくださっている方々とのミックスで、あたたかい雰囲気で終わりました。
お昼休みや、終わった後のお茶の時間にも、アレクサンダー・テクニークのことだけじゃなくそれ以外にも共通する興味の対象があることがわかって連絡先を交換しあったりする姿が見られて、やってよかったなあと思いました。

ワークショップのなかでは、

人前でしゃべる
人に施術をする
椅子に座る
椅子に座って楽器を演奏
お能の動き
包丁を研ぐ
リュックを背負う
寝て、休む
足先の探究

などなど、
ふだんなにげなくやっていることや、ちょっと大変だなと思いながらやっていること、
ある人にとってはむずかしいけれど、ほかの人にとっては何も考えずにできること、
そういうことを、まず誰かがやってみて、いつもどおりとは少し違うやり方の可能性を見てみて、それから全員でやってみる。

たとえば頭と背骨を意識しながらとか、そのときどきで、いろいろ…。

楽器演奏や、施術その他の専門的なことの場合、みんなでやってみることはできないし、それどころか、それを見ることもはじめての人が多かったりする。
だけど、その人がパフォーマンスをしてくれるのに立ち会っていると、
一回目、二回目、三回目……技術以外のところで、何か違いが起こっていることがわかる。
何が違うのかはわからないような、繊細な違いだったりするけれど、でも何かが確実に違う。
何か伝わってくるものの、伝わってきかたが違うのがわかる。

それは、専門的でないことをやるときにも、起こる。
ただ立って、壁の注意書きを読むときなどにも。

こういう時に立ちあうのがすごく楽しい。

私はアレクサンダー・テクニークに最初に出会ったころから、これが楽しくて、ワークショップに出続けていたんだったなあ。
それが何に役に立つんだろうかとか、そんなことも考えずに。

参加者の人たちが、お互いが「あらわれてくる」のに立ち会って静かに目を輝かせているのを見て、そんなことを思い出す。

その人のその人らしさ、その人が持っている魅力、才能、
それまでも、隠しているつもりもないのかもしれないのに隠れていたもの、
そういうものが、とっても自然にあらわれてくるときに立ち会うのが。

(本人がそれに気づくのには、少し時間がかかったりもするけれど…)。

努力することで才能が向上することはたくさんあるけれど、
努力の過程のなかで、なにか余計なものまで付け加えてしまうことがある。
そういう何かを、少しやめることによって、あらわれてくるものがある。

アレクサンダー・テクニークはそんな、やめていくワーク。

その「やめていく」は、ストイックなこととはかぎらない。

やめていくことによって、もっと力を発揮できるようになったり、もっとがんばれるようになったり、
やめていくことによって、より自信を持って楽しく続けられるようになったり、そういうことも大いにある。

そんなふうに、
やめていくことによって、増えていくものがある。
ダイナミックないのちの流れとして動いているもの。

あと、アレクサンダー・テクニークの特徴のもうひとつは、
何か刺激になることーー重力とか、荷物とか、他者とか、やらなくちゃいけないこととか、やりたいこととか……そういうものとの関係性のなかで、自分の体や自分自身をみていくやり方であること。

刺激って、邪魔なものだととらえられがちだけど、
そうとも限らない。
刺激になるものがあるからこそ、自分と出会い直すことができるのだ。

 

ワークショップ中に出てきたことばのメモなど…。

・自分をひらたくしてしまわなくていい。

・リュックを持つときに、足先を含める/足先も参加。

・「あわわ」となったとき、自分に戻る時間を持っていい。自分に戻りながらでも、相手の人との関係はちゃんと続いている。

・リラックスした自分のままで、子どもたちと接するという可能性。

・椅子の形や高さに左右されない座り方

・体のことだけを意識するのではなく、手と物が触れ合う感触、物同士が触れ合う感触を体全体で感じる。

・相手に興味を持つことを自分に許す/つまらなくてもいい。おもしろいことを見つけようとしなくてもいい。

・集中したいとき、自分の中だけでなく、場の全体を含めた意識のなかで集中するという可能性。

アレクサンダー・テクニークlittlesoundsでは、東京と神奈川で週3日づつ個人レッスンを行っています。
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